銅ヶ丸鉱山・美郷町|100年前の繁栄を追って

美郷町の記事

知られざる巨大鉱山

明治時代の銅ヶ丸の姿(山陰中央新報・2006/2/16より)
対岸から見た銅ヶ丸(現在)

 美郷町と川本町の間のあたりに「銅ヶ丸鉱山」という銅山があるが、ご存知の方はどれほどいるのだろう。島根県の鉱山といえば、やはり石見銀山が有名だ。石見銀山の知名度は全国区であり、観光地として綺麗に整備されている。

 しかし、石見銀山より3年前に開坑していながら、記録にほとんど残らず、地元でも知名度が高くない鉱山が、美郷町竹にある。

 かつて「東の足尾、西の銅ヶ丸」とも言われたという巨大銅山。島根で初めて電灯が点き、当時西日本で2番目に大きな橋(現在の川本東大橋の前身にあたる橋)が作られたという華やかな逸話まである。

 今回はそんな銅ヶ丸鉱山について調査し、実際に現地を訪れ、当時の邑智の姿に迫ってみた。

銅ヶ丸の歴史を紐解く

 歴史紹介になるので少々文字が多くなる。後半では銅ヶ丸の現地の様子を写真つきで紹介しているので、そちらもぜひご覧になってほしい。

 銅ヶ丸に関する情報は、ネットにはあまり載っていない。しかし邑智町史には、銅ヶ丸の歴史や様々な記録がたくさん残っている。

 銅ヶ丸が切り開かれたのは、室町時代の1431年。石見銀山よりも3年前だ。当時の武将が、銅ヶ丸を求めて戦をした記録がある。江戸時代には、銅ヶ丸は石見銀山と同じく江戸幕府の直轄領となった。吾郷村史では近代以前にも銅ヶ丸が栄えていたと伝えられているが、大規模に採されるようになったのは近代以降のようである。

 明治以降も松江の安達惣右衛門などが採掘を試みたが、採算が取れず続くことはなかった。

 ところが明治20年に、津和野の鉱山王と呼ばれた堀伴成氏が銅ヶ丸を買収した。

 彼は、「坑道(間歩のこと)貧弱なるも、多量に存在する…これを処理するには洋式の選鉱及び製錬を用いなければならない(堀家が、当時の皇太子殿下、後の大正天皇に供えた状況書より)」と銅ヶ丸の可能性を見抜き、新技術を取り入れた大規模な採掘を開始した。そうして銅ヶ丸は黄金時代を迎えるのだった。

 といっても、堀氏がテコ入れする前の銅ヶ丸は、まだ大規模な採掘が行える状況ではなかった。「精錬工場は極めて幼稚であり、今津(銅ヶ丸がある地域の地名)もまだまだ山林だった」と、そのため、銅ヶ丸周辺の山の草木を切り、焼いた。

 山中に民家もあったが買収して焼いたそうだ。当時の方々が銅ヶ丸に対してどれほど本気であったかが伺える。「1日に2,3人死ぬるのは覚悟の前だ」と啖呵を切る声もあったようだ。

 銅ヶ丸には選鉱場や精錬所のほか、水力発電所、鉱山から精錬所までのトロッコ(インクライン)、さらには鉱山労働者のための私立小学校まで造られた!先に述べた通り、島根で最初の電灯が灯ったのもこの頃だ。銅ヶ丸は黄金時代を迎えていた。

小学校や鉱山住宅があったエリアの石垣
麓から約1km、かつて学校や住宅が建っていた辺りの石垣(提供:反田さん)
インクラインのレール
インクラインのレール
墓
山中に残る墓(提供:反田さん)

 そんな中、明治40年に銅の価格が暴落し、休山。銅の価格の回復を待ち望んでいたところ、子供が山中の空き家に入り、火遊びをした際に失火。精錬所などが全焼し、閉山となった。わずかに残る鉱山の面影は、今も山中に閉じ込められている。

実際に行ってみた

 それでは当時の面影を求めて、実際に銅ヶ丸を見てみよう。案内して下さったのは、桜江町で小さな自然館を営む反田さん。20年ほど前から、依頼があるたびに銅ヶ丸の見学会を行っている。10年ほど前には、島根中央高校の自然科学部を銅ヶ丸へ案内したこともあったそうだ。

小さな自然館・反田さん
反田さん(右)

 最初に、かつて採掘が行われていた抗口跡を訪れる。

 田水川と支流が合流する地点まで反田さんの車で上り、そこから約1kmの道なき道を歩く。

 辺りには金色に輝く黄銅鉱や、白く光る閃亜鉛鉱を含む岩石がたくさん落ちている。

 反田さんは道中何度か実験を見せてくれた。黄銅鉱を含む岩石を希塩酸に漬けて、鉄のカッターを当てる。すると、鉄のカッターが銅メッキされて、純粋な銅が現れる。

実験
実験2
銅が現れた!

 中央が凹んだ石が落ちている。岩石を割るときにまな板のように使われた要石(かなめいし)だ。

要石

 隘路を進み続けると、エメラルドグリーンの壁に出会う。この幻想的な緑は、水中に溶け出した黄銅鉱と他の不純物が、滝の中で合わさることで生まれる。銅が豊富にある証である。

緑壁
壁が緑の滝
緑壁2
滝の表面

 坑口跡までの道のりには、レンガづくりの砂防ダムや、トロッコのレールなど、明治時代の名残が残っている。また、大自然の銅ヶ丸には、腐敗して異臭を放つイノシシも見られた。

  岩の壁を登り、石の急斜面を登り切ると、木がほとんど生えない石の荒原が広がる。ここが当時の主な採掘場であり、あちこちに抗口跡がある。

石ころの斜面
急斜面をすいすい進む反田さん
採掘場
坑口跡
坑口
抗口(提供:反田さん)

 次に、かつて精錬所があった石垣を歩く。精錬所やその他の建物は火災により消失したようだが、石垣やレンガなどに当時の面影が残っている。

石垣
精錬所跡周辺の石垣

 旧三江線の線路を渡り、薮の斜面をしばらく登ると、数メートルほど積まれた石垣が何段も続いている。

 黄銅鉱の岩石から除去されたガラスが、今も捨てられたままである。

ガラスを含む石
当時精錬によって出たもの

 さらに石垣を上がると、レンガの柱が現れる。100年以上前に積まれたレンガは蔦に巻かれながら、今も深海の古代魚のようにひっそり佇んでいる。

レンガ
100年以上前に使われていたレンガ

 反田さんによると、精錬所の横、江の川の沿岸に港があり、銅はそこで船に載せられ、運ばれていったそうだ。

コメント

  1. 匿名希望 より:

    銅ヶ丸鉱山を調べていたところ、こちらの記事にたどり着きました。実際に足を運んで書かれた新鮮な一次情報をありがとうございます!
    私も実際に伺ってみたくなりました。レンタカーを借りて行けると良いなと思っています。

    • 部員T より:

      お読みいただきありがとうございます!
      もし銅ヶ丸へ足を運ばれるなら、江津市の「小さな自然館」(0855-93-0795)の方が無償でガイドをしていらっしゃいます。
      ここしばらく暑いので、熱中症などにお気をつけてお越しください!